古雜文庫

図書カード

須藤鐘一:人魚の誘惑

表 題 人魚の誘惑
著 者 須藤鐘一
底 本 『早稻田文學』第百五十九號(1919年2月1日 早稻田文學社刊)
初 出 同上
更新日 2021/11/18

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 東京では、每日九十四五度の酷暑が續いた。暑さに弱い杉田は堪らなくなつて、三崎行を思ひ立つた。それは、妻が母の墓參に三百里もある田舍へ、二月ばかりの豫定で歸つたので、下婢の婆やと二人切りの旦暮の淋しさを紛らす爲めでもあつた。云ひ換へれば、二年あまりの間といふもの、一寸散歩したり、お湯に行つたりするにも夫婦が一しよで、彼の會社に勤める時間を除けば、ほんとに片時も離れて居なかつた處の Better half が——貝殻の片割とも、手ずさみの玩具ともいふべき生活の相手が——急に居なくなつたので、腑の拔けたやうな、ガツカリした感じと、晴々したやうな、放たれたる喜びとがゴツチヤになつて、全身をのたうちまはつて、その遣り場に窮した結果でもあつたのである。
 幸ひ、彼は一二週間位ゐ何時でも休めるほど、會社では閑職に就いて居た。それに、五年前親父の遺產を少からず手に入れてからは、强ゐて會社などへ勤めなくてもよい身分だつた。
 靈岸島から小さい汽船に乘り込んで、單調な東京灣の景色を甲板の上から眺めながら、ヂリ〳〵と照りつける眞夏の日光に汗を拭きつづけた。でも、海はよく凪いで居て、彼が氣にして居た船暈も催さなかつたが、沿岸の港々へ寄つて荷物の積卸しをするので、航程は容易に捗らなかつた。やつと、三崎の魚臭い船着場へ上つた時は、もう日がトツプリ暮れてしまつて居た。
 彼には初めての土地なので、ウロ〳〵と步きまはつた後、途方にくれて薄暗い街角に彳んだ。ふと眼の前に不景氣らしい旅宿の行燈がぶらさがつて居るのに氣がついて、兎も角と其所へ飛び込んだ。が、階下の汚い六疊に押しこめられて、まづい夕食の膳に向つた時には、無暗になさけなくなつて、(何故こんな處へ來たのだらう。)と、此の三崎に來た事が如何にも馬鹿らしいやうに悔やまれた。