古雜文庫

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谷崎潤一郞:或る罪の動機

表 題 或る罪の動機
著 者 谷崎潤一郞
底 本 「谷崎潤一郞全集」第八卷(1981年12月25日 中央公論社刊)
初 出 『改造』第四卷第一號(1922年1月1日 改造社刊)
更新日 2021/12/11

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博士を殺した下手人が博士の忠僕であつた書生の中村であると分つた時、博士の遺族の人々は皆驚いたのである。未亡人も、令息も、令孃も、等しく云ひやうのない恐怖と戰慄とに撲たれたのである。なぜなら、それが如何なる動機に基いて實行にまで持ち來たされたか、又あの善良な博士が如何にして災害を受ける原因を作り得たか、全くそれらが意料の範圍を逸して居たから。———さうして人は、一般に、災害が何等の發見し得べき理由なく訪れて來たとき、而もそれが極めて陰險に、巧妙に、恰も一箇の事業を遂行するが如くに綿密な計畫を以て遂行されたとき、一層その恐怖を大にするものであるから。———つまり彼等は、人はどんなに完全に幸福であり善良であつても、いつ何時いかなる禍の犧牲になるかも知れないと云ふ事を、痛切に感じたのである。其の事は博士に徴して眞理であるばかりでなく、加害者たる中村に徵しても眞理であつた。何となれば、———彼等の見る所では、———中村も博士と同じく幸福であり善良であつたから。博士の殺されたのが偶然の禍であるとしたら、中村の博士を殺したのも、抑もその考が中村の頭に發生したのも、矢張偶然の禍であるとしか、彼等には思へなかつたから。
で、その時、———と云ふのはF探偵が紛れもない指紋に由つて彼の犯罪を立證し、博士が殺されたその書齋で、遺族の人々の面前に於いて彼の自白を迫つた時、中村は口邊に薄笑ひを洩らしながら、「しまつた」と云ふ風に頭を搔きながら、靜かに云つた。
「あゝ、お分りになりましたか。———では仕方がございません、先生は私が殺したのです。———」
その態度は、落ち着いては居たが橫着とは見えなかつた。不思議にも矢張今迄通りの正直で忠實な書生に見えた。その素振りや物の言ひ振りは少しも今迄の中村を裏切らない、彼に似つかはしいものであつた。强ひて異點を求めれば、ただ顏色が平生よりもやゝ靑褪めて居ただけである。