古雜文庫

図書カード

小川未明:殺人の動機

表 題 殺人の動機
著 者 小川未明
底 本 『早稻田文學』第九十五號(1913年10月1日 早稻田文學社刊)
初 出 同上
更新日 2021/12/18

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 やはり體が弱つてゐるせいであらう。無駄目が見えたり、何處からともなく襲うて來る暗愁に眼が眩んだりするのは、神經衰弱が殆んど極度に達してゐるからだ。かうKは考へたのであつた。
 彼は先日醫者の許へ行つて頭痛の癒る藥を貰つた時に、神經衰弱が極點に達したら、其時は氣が狂ふのでないかと聞いたのであつた。敷島の袋を手に取り上げて考へ顏をした、色の淺黑い素朴な醫者は、何にあなた位の神經衰弱で氣が狂ふやうな心配はありません。そんなことを考へない方がいゝでせうと言つたのである。けれども尙ほKは不安であつた。而して思つたのであつた。しかし醫者はあゝ言つたものゝ、畢竟彼にとつては他人の身の上のことである。一度や二度の診察で病氣の程度などがはつきりと分るものでない、自分の病氣はもつと惡いのだ。醫者が想像出來ない程精神狀態などは病的になつてゐるのである。Kはいつしか醫者の言を信ずることが出來なくなつた。而して机の前に坐つて、ぼんやりとして我家の系統や、先祖に精神病者がありはしなかつたかと遺傳について考へたのであつた。
 子供の時分であつた。微かに覺えてゐる、母が祖母の兄が頸を縊つて死んだことを思ひ出して話してゐるのを聞いたことがあつた。其れは自分が五つ六つの頃に妙な潔癖があつてちよつと外へ出て來るときつと手を洗つたものだ。それは汚ない惡戱をした譯でもなくたゞ懷手をして戶口に立つてゐたばかりであつてもやはり手を洗つたのである。また飴賣が家の前を通るのを默つて出て見て來た位でも、きつと缺かさずに手を洗つたのである。これに氣が付いてゐる母は、
 『お前は何も汚ないことをしたのでないから、そんなに歸つて來ても手を洗はなくてもいゝでないか。』と癖を改めさせるやうに言つたものだ。けれど自分はどうしても手を洗はなければ氣が濟まなかつた。