古雜文庫

図書カード

藏原伸二郞:鏡の底

表 題 鏡の底
著 者 藏原伸二郞
底 本 文壇新人叢書第十篇「猫のゐる風景」(1927年11月15日 春陽堂刊)
初 出 『葡萄園』第四卷第五號(1926年6月1日)
更新日 2021/12/25

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 ●松林の丘陵をおりて、また幽暗につづく竹林の坂路を一町餘りもくぐり拔けると、そんなにも廣くない山峽の畠が、いちめんに新らしい麥の匂に輝いてゐるのである。
 その山ふところを流れてゐる溪流に沿うて、私は每日のやうに絲を垂れた。——どうかすると晝飯も食はないで、巨大な落日を眺めて歸つてくることが多いのである。が、日かげの溪流に覆ひかぶさつた竹林の蔭で、しかし私は浮子を眺めながら考へ込んで仕まふのだ。
 實さい、これからの事を考へると、もうどうしていいか解らなく憂鬱に滅入り込んでしまふ。
 やがて、一年にもなる。都會を遠く、乞食のやうに、この山あひの村迄追放されてしまつた。都會の影で得た偶然の妻と、灰紅色のあうむを連れて逃げて來たのである。ここは都會からさう遠くはない、が、山のかげに隱れてゐて、じつに遠い國境にでも居る氣がするのである。
 都會は、私に職業を與へて吳れないのである。私に職など有やう筈がないではないか。あえぎ、あえぎ、都會の騷音と、はげしい電氣の光に疲れてしまつた男ではないか。この若さで、あ、とつくの昔である。生存競爭など無くしてしまつてゐる。が、私は二十七の靑年なのだ。あやまつて持つてしまつた妻は、まあ、なんと不思議な重荷であらう。灰紅色のあうむですらが、今では一つの重量ではないか。こんなものは、足があり羽があるのだから、自分から逃走して仕舞へばいい、自分一人を持てあましてゐる男に誰が妻など持たしたのだ。が、私の妻君はなかなか私を見捨てないのである。一年にもなつてゐるのに、まだ私に愛想つかして吳れないのであらうか。