古雜文庫

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新居格:文藝と時代感覺

表 題 文藝と時代感覺
著 者 新居格
底 本 日本現代文學全集67「新感覺派文學集」(1968年10月19日 講談社刊)
初 出 『文藝時代』第三卷第七號(1926年7月1日)
更新日 2021/01/23

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         一

「夢も現も、眞實も虛僞もごつちやに入り亂れて流れてゐます。何處も確かな處はない。我々は他人に就いて何にも知らない。我々に就ても何にも知らない」
 これはシュニッツレルが戲曲の一人物パラアツェルズスに言はせた言葉である。そして僕にも好きな言葉である。だが人々の多くは何處も確かな處計りのやうに思ひたがる。他人に就いて何にも知らないと思はない計りか大に知つてゐるかの如く思ひたがる。それが惡るいと云ふのではない。またそれが惡るいことでも何でもない。わるいことは人々の物の見方と考へ方である。とだけでは分かるまいが、僕の云ふのは人々の少なからざる數が兎角に物を惡るく解釋すべく慣されたそれである。
 私の見方がよし人性樂觀に過ぎるかも知れなくても私は萬事を好意で見たい。と云ふのはこれを例へば近頃よく人の口の端に掛り、どうかすると創作の題材にもなるかのやうであるモダン・ガールである。銀座の舖石道を洋裝して、斷髮して氣取つて通る若い女性を人々は何のことはない、すぐモダン・ガールと云ふ。今ではモダン・ガールは少からず惡い含意がある。その含意は反感反情である。それはハイカラと云ふ意味が最初は單純に高いカラーと云ふことであつたのが後にはキチンと身裝の整つた瀟洒たる風采が一轉して氣障の要素を少なからず含有するものの指稱となつたのと同じ按配である。さうした經過を取ることは人間の心理の一隅に憎新性があるからである。その憎新性は新しい現象乃至新傾向のうちに存する好良さを認めるより先きに、その缺點の方面を見出す。好意でもつてみれば必ずしも缺點でないものまで缺點だと看做す計りではなく强調する。そして視野の焦點をそこに凝集させる。だから、取るべき何物かがあつても取るべからざる全部として仕舞ふ。モダン・ガールは今では漸く嘲笑的含意を以つて視られつつあるかの如くである。それを大別して云ふならば第一は服裝容子の歐人と見違ふやうな女性をモダン・ガールと輕斷して反情を示す世俗的な見解である。第二はプロレタリアからしてブルジョア的のものとし、ブルジョア末期の崩壞的所產として反感を投げかける存在である。僕の理論したモダン・ガールは無政府主義思想を情感の上に取り容れたものであつたが、その說の當否はしばらく措くとしても、僕の指目は第一、第二の見解とは著しく違つたものであつた。僕は文藝雜誌である本誌に於いてモダン・ガールを再說しようとは思はぬ。それのみならず僕は必ずしもモダン・ガールの支持者ではない。まして木村毅君の僕に就いて指示したやうにモダン・ガールの創始者でもなければ東京朝日新聞學藝欄の匿名執筆者オールド・ボーイの僕に就いて云つたやうな勸進元乃至理論的權威ではない。僕は僕だけの感じ方、考へ方で構想して結論しただけであつた。だけれど、僕は憎新性を取らない。取分け、憎新性を廓大し强調することを欲しない。僕は世間の事なんて特に現在のやうな低卑紛雜がただ譯もなく形造し映象する觀念形態には常に不信をもつものである。僕は輿論を愛しない。本質的に輿論なんていやなものであるからだ。政治上の輿論を愛しない如く、世間が大した譯もなく片付けて仕舞ふ言葉の內容を欲しない。