古雜文庫

図書カード

堀辰雄:蝶

表 題
著 者 堀辰雄
底 本 「堀辰雄全集」第五卷(1955年3月10日 新潮社刊)
初 出 『驢馬』第十一號(1928年2月1日 騾馬発行所)
更新日 2022/02/06
備 考 『騾馬』に1928年2月に「即興」と題して発表。その後改稿され『藝術派ヴアラエテー』(1930年6月赤爐閣書房)に「即興」の題で掲載。後に「蝶」と改題された。

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 僕は何故このやうにプラツトフオムの一端に立つたまま空の同じところばかり見つめてゐるのだらう。僕は何かを思ひ出さうとして眼をとぢる。するとその閉された眼の中には少し離れたところで僕と同じやうに電車を待つてゐる一人の若い女の顏が蘇つてくるのである。その女の顏は、光線のせゐか、硝子を透して見たやうにすこし靑味のある皮膚をしてゐる。さつき、その顏をむさぼるやうに見てゐたのを自分でも氣まり惡く思ひだして、僕はそれから眼をそらしてゐるために、かうして靑い色のほかは何も見えない空をぢつと見てゐたのである。
 僕はしづかに眼をあけた。僕はやはりその眼をその知らない女の方に持つて行つた。すると何時步いてきたのであらうか、その知らない女は僕のすぐ傍に立つてゐたのである。それがため、僕は遠くのものを見ようとした眼で、急に自分のすぐ傍のものを見ることを强ひられたのであつた。 その時に、それはごく僅かな時間ではあつたが、僕の眼の中には思ひがけない美しい混亂が起つた。といふのは、その數時間、僕はどうしてもそこに女の顏をはつきり見ることが出來ないのであつた。そして僕はただそこに女の顏のやうものを漠然としかし微妙に感じてゐた。いきなり僕のところに持つて來られた一輪の花が漠然としか感じられないやうに。